DSM5案に見られる性同一性障害をめぐる議論

針間克己:DSM5案に見られる性同一性障害をめぐる議論:現代のエスプリ 521号(2010年12月号) 性とこころ――女と男のゆくえ P117-123
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DSM5案に見られる性同一性障害をめぐる議論

アメリカ精神医学会(American Psychiatric Association)は、DSMと呼ばれる、「精神疾患の診断と分類の手引き」を発行している。現在、第4版(DSM-IV-TR)が発行されているが、2013年には、新たに第5版の発行が予定されている。2010年には、その第5版(DSM5)の試案が発表された。そこでは、性同一性障害に関する記述も大幅に変更されている。その変更は、性同一性障害に関する最近の議論を反映したものとなっている。この試案が、そのまま第5版に採用されるかどうかは現時点では定かではないが、性同一性障害をめぐる最近の議論を知る上でも、本稿でその試案を紹介し、併せて試案の背景にある議論や考えも記すことにする。

DSM5案における性同一性障害の診断基準
まずは、DSM5案における性同一性障害の診断基準の原文と、筆者による試訳を示す。

302.85
Gender Identity Disorder in Adolescents or Adults
Gender Incongruence (in Adolescents or Adults) [1]
A. A marked incongruence between one’s experienced/expressed gender and assigned gender, of at least 6 months duration, as manifested by 2* or more of the following indicators: [2, 3, 4]
1. a marked incongruence between one’s experienced/expressed gender and primary and/or secondary sex characteristics (or, in young adolescents, the anticipated secondary sex characteristics) [13, 16]
2. a strong desire to be rid of one’s primary and/or secondary sex characteristics because of a marked incongruence with one’s experienced/expressed gender (or, in young adolescents, a desire to prevent the development of the anticipated secondary sex characteristics) [17]
3. a strong desire for the primary and/or secondary sex characteristics of the other gender
4. a strong desire to be of the other gender (or some alternative gender different from one’s assigned gender)
5. a strong desire to be treated as the other gender (or some alternative gender different from one’s assigned gender)
6. a strong conviction that one has the typical feelings and reactions of the other gender (or some alternative gender different from one’s assigned gender)
Subtypes
With a disorder of sex development
Without a disorder of sex development
[14, 15, 16, 19]

302.85
成人あるいは青年の性同一性障害

性別の不一致(成人あるいは青年) [1]
少なくとも6ヶ月続く、経験した/表現した性別と、指定された性別との著明な不一致。その障害は以下の2つ(またはそれ以上)によって表れる。: [2, 3, 4]
1. 経験した/表現した性別と、第一次および/または第二次性徴(または、早期青年では予想される第二次性徴)との著明な不一致。 [13, 16]
2. 経験した/表現した性別との著明な不一致を理由とした、第一次および/または第二次性徴から解放されたいという強い欲求(または、早期青年では予想される第二次性徴の発達を阻止したい欲求) [17]
3. 反対の性別の第一次および/または第二次性徴を獲得したいという強い欲求
4. 反対の性別(または、指定された性別とは違う何らかの代わりの性別)になりたいという強い欲求
5. 反対の性別(または、指定された性別とは違う何らかの代わりの性別)として扱われたいという強い欲求
6. 反対の性別(または、指定された性別とは違う何らかの代わりの性別)の典型的な感情や反応を持っているという強い確信
亜型
性分化疾患あり
性分化疾患なし
[14, 15, 16, 19]

([ ]内の数字は、脚注。脚注の英文は省略する)


主な変更点
ここからは、DSM5案における主な変更点と、その背景について論じる。

1.疾患名の変更
まず、特筆すべきは、「 gender identity disorder・性同一性障害」が 「Gender Incongruence・性別の不一致」へと変更されたことである。この変更に背景には、「性同一性障害」という病名への当事者たちの不満がある。つまり「性同一性障害」という病名は、「性同一性の障害」を意味するが、当事者たちは自分たちを「性同一性の障害」とは思っていない。性同一性とは平たく言えば、「心の性」のことであるが、「性同一性の障害」であれば、「心の性」が間違っているという意味になる。しかし、当事者たちは自分の心の性が間違っているとは感じてない。間違っているのは心の性ではなく、「体の性」だと感じているのである。そのためDSM5案では、「性別の不一致」という説明的用語を用いている。そこでの不一致とは、「経験した/表現した性別と、指定された性別との著明な不一致」である。

2.「sex・性」という言葉が「assigned gender・指定された性別」に置き換えられた
DSM-IV-TRで用いられていた、身体的性別を表す用語「sex・性」は、DSM5案では「assigned gender・指定された性別」に置き換えられた。身体的性分化においては、生物学的性別の諸要素(たとえば46XY染色体)は他の諸要素(たとえば外性器)などと不一致なことがある。それゆえに、「sex・性」という用語を用いることは混乱を招くことがある。「assigned gender・指定された性別」とは、出生時などに、助産師・医師等により、男性ないし女性に指定された性別を指す。
また、診断基準の中から、「その障害は、身体的に半陰陽を伴ったものではない」がなくなっていることを併せ考えると、DSM5案では、性分化疾患も内包した疾患概念となっていることが分かる。これまで、性分化疾患を抱え、性別違和を持つものをどう診断するかは難しいものがあったが、DSM5案では、鑑別の必要がなくなり、そのような困難はなくなることになる。
また、この用語の変更により、満足すべき身体的治療により成功裏に性別移行を終えたものが、診断を「失う」ことも可能となる。すなわち、このことは、DSM-IV-TRにおいて、いったん性同一性障害と診断された者は、身体的治療と性別移行を終え、自分が同一感を持つ性別役割に心理的にも適応していても、診断が続くとみなされたという問題の解決となる。つまり、治療により新たに「指定された性別」が「経験した/表現した性別」と一致すれば、もはや診断基準を満たさなくなるということである。
逆に、この診断は、最終的には反対の性別だと感じることが出来なくて、性別移行後に後悔している者に対しても、用いることが出来る。たとえば、生まれたときは男性で、その後女性化への身体治療を行い、女性として生活してみたものの、「新しく指定された」女性としての性別に、一致感を感じず、経験した/表現したとした性別としては、再び男性であると感じている場合などである。

3.男性か女性かという二分法ではない
DSM-IV-TR では、性別に関しては、男性か女性かという二分法で記述されていた。DSM5案の新しい記述では、「the other gender (or some alternative gender different from one’s assigned gender)・反対の性別(または、指定された性別とは違う何らかの代わりの性別)」となっている。すなわち、「反対の性別」以外の性別も想定されているのである。実際に「自分は男でも女でもない」「自分は第三の性だ」「自分は男性と女性の中間だ」など、さまざまな、経験した/表現した性別がある。DSM-IV-TRでは、男性ないし女性の性別しか想定していなかったため、そうでない者たちへの診断が困難であった。DSM5案では男性ないし女性以外のさまざまな性別のものも内包したものとなっている。

4.「D.その障害は、臨床的に著しい苦痛または、社会的、職業的または他の重要な領域
 における機能の障害を引き起こしている。」が削除されている。
DSM-IV-TRにあった「D.その障害は、臨床的に著しい苦痛または、社会的、職業的または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている。」が削除されている。
 性別違和があっても社会的、職業的な機能の障害を引き起こしていない者もいる。また著しい苦痛が、疾患に本質的なものではなく、偏見や差別に伴うものだという議論もある。こういった、議論を回避するためにも、DSM5案においては、この診断基準が削除されている。

5.性指向に関する下位分類が削除されている
DSM-IV-TRにあった性指向に関する下位分類は削除されている。
現在の臨床現場において、性指向そのものは、治療方針の決定に大きな役割は果たしてない。一方で、患者は、ホルモン療法や外科治療の承認を得るために、不正確な情報を伝える可能性がある。たとえば、男性から女性になろうと思うものは、実際には女性に性的魅力を感じていても、典型的な性同一性障害患者の特徴であろうとして、男性に魅力を感じると述べたりする。そのため、性指向別に下位分類することを正確に行うのは困難となる。
また、性的パートナーの性別の好みに関する変化が治療中や治療後に起こることも近年知られている。すなわち男性から女性へと移行するにつれ、女性を好きだったものが男性を好きになったりする。このことも下位分類を不正確ないし流動的なものとさせるのである。

6.性分化疾患の下位分類が加わった
すでに記したように、DSM5案では、性分化疾患も内包したものとなっている。そのため、性分化疾患の有無により、下位分類をするようになっている。


おわりに
DSM5案における変更点の主な点についてここまでに記した。
全体的にみると、
・身体的性別が典型的な男性、女性だけでなく、性分化疾患も含み
心理的性別も典型的な男性、女性以外のものも含み、
・本人の苦悩や、社会的・職業的機能の障害の有無も問わず、
ということで、非常に広範な概念となっている。
これは、実はほぼ「transgender・トランスジェンダー」という概念と一致するものである。
「gender identity disorder・性同一性障害」ないし「transsexual・性転換症」は、ホルモン療法や手術療法により、可能な限り身体的に反対の性別へと近づこうとするものを指す、医学的概念である。
いっぽう、トランスジェンダーはそういった医学的概念に枠に収まらない、さまざまな非典型的な性別のありようを示す概念である。欧米では、当事者たちは医学的概念の「gender identity disorder・性同一性障害」ないし「transsexual・性転換症」よりも、トランスジェンダーとして自己を呼ぶことが多い。
そこには、非典型的な性別のありようであっても、医学的疾患とみなす必要はないという思想も流れる。すなわち、非典型的な性指向のありようである同性愛が、もはや医学的疾患でないように、性同一性障害も医学的疾患とはみなすべきでないという考えもあるのである。
このような議論の中、DSM5では性同一性障害が疾患リストに残るか否かが注目されていた。結果としては、DSM5案の中では、性同一性障害はよりトランスジェンダー概念に近い「Gender Incongruence・性別の不一致」、として示され、残ることになった。このことは、ある意味で、従来の性同一性障害概念がトランスジェンダー概念に歩み寄ったともいえる。しかし、見方を変えれば、従来は医学的疾患とはみなされなかった、性別の多様の在り方をも、医学的疾患として内包することとなるのは、皮肉な結果にも思えなくもない。

性とこころ―女と男のゆくえ (現代のエスプリ no. 521)

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