大島俊之:性同一性障害って何?増補改訂版 P220~P225
>Q46 FTMの妻が人工授精で子を産んだ場合には、その子は嫡出子なの?
FTMが要件を満たし、戸籍上も男性になり、結婚しました。この妻となった女性が人工授精で子を産んだ場合、その子は夫婦の間の嫡出子となるのでしょうか。
2010年1月10日の朝日新聞の報道によれば、兵庫県宍粟市(しそうし)在住のFTM(現在の戸籍では男性)の配偶者(女性)が人工授精で産んだ子の出生届書を提出しようとしたところ、非嫡出子の出生届として受理すると言われました。その後、法務大臣が再検討を表明したが、まだ、最終的な決着はついていません。このFTMは、その後、大阪府下に転居し、前田良という活動名を使用しながら、活動を続けているようです。
夫以外の第三者の男性から精子の提供を受けて、妻を妊娠・出産させるのが、AIDといわれるものです。わが国では、戦後間もなく、慶応大学付属病院で始められたといわれており、すでに1万人以上の子が生まれていると言われています。
AIDの場合の特例法
AIDで生まれた子については、法的な問題があります。子は、生物学的に夫の子でないことは明白です。そこで、諸外国では、妻がAIDを受けることに同意した夫は、妻が生んだ子が自分の子ではないことを主張することができないという規定を置いています。諸外国の特別規定は、妻がAIDで産んだ子は夫の子であることを確立するために置かれており、それを否定するために置かれているのではありません。
日本でも、古くから、民法学者が中心となって、諸外国の特別規定を紹介し、日本でも、妻がAIDで産んだ子について、嫡出否認の訴えを禁止または制限する方向での立法が必要である旨が主張されてきました。しかし、結局、日本では、AIDについて、何ら規定されることなく、60年近くの間、放置されてきました。つまり、妻がAIDを受けることに同意した夫について、嫡出否認の訴えを制限する規定は置かれなかったのです(民法774条〜778条参照)。
形式審査主義
戸籍上の届け出を受理するか否かの判断に関しては、戸籍事務管掌者は、当事者の生活実態について調査せず、戸籍や書類上の記載に基づいて形式的に審査してきました。
婚姻届の場合であれば、戸籍及び婚姻届の記載に基づいて、書類上、明らかなことだけしか審査をしないという主義です。不適齢婚、重婚、再婚禁止期間が満了しているかどうかなどは、戸籍上の記載だけに基づいて判断することができます。これに対して、当事者が実際に同居しているか、性交が可能か、性交しているかなどについては審査しないのです。
出生届の場合であれば、戸籍及び出生届の記載に基づいて、書類上、明らかなことだけしか審査をしないということです。子が非嫡出子であるか、嫡出子であるかは、戸籍上の記載と、民法772条の規定を適用して判断されます。
父子関係について、父と子の血液型、DNA型が一致するかどうか、夫と妻が性交したか、夫の精子の数は妻を妊娠させるに十分か、妻がAIDによって妊娠・出産したかなどについては、審査されないのです。生まれた子の性別について、子の性染色体がXXであるかXYであるかなどということも、調査しないのです。
ただ、夫が性同一性障害者であった場合には、戸籍に印字される情報を超えて、戸籍事務管掌者には、夫が元女性であり、性同一性障害特例法に基づき、女性から男性に性別表記を変更したという事実が簡単に分かる仕組みになっています。したがって、妻がAIDで妊娠したか否かなどの実質的な審査をしなくても、元女性であった夫が妻を妊娠・出産させられる生物学的な可能性がないことは、戸籍事務管掌者には分かるのです。
このため、法務省は、夫が元女性であり、性同一性障害特例法に基づき、女性から男性に性別表記を変更したと場合において、その妻が出産した子は、生物学的に夫の子であるはずはなく、民法772条の適用はなく、非嫡出子として出生届を受理すべきであるとしているのです。
しかし、国家あるいは公務員が、このような細かな家庭の事情にまで関与・干渉することは問題であろうと考えます。
家庭の平和
元来、戸籍事務に関する形式審査主義には、国家あるいは公務員が各家庭の事情に過度に介入・干渉しないという良い面があります。夫婦には、他人には知られたくない様々な事情を抱えている場合がありえます。妻が不貞をした。夫がインポテンツである。夫婦仲が悪い。夫あるいは妻が同性愛者である。妻が不妊治療を受けている。夫が無精子症である。妻がAIDで子を妊娠・出産した。
戸籍事務管掌者は、各夫婦の様々な事情について考慮することなく、夫婦間に生まれた子について、民法772条の規定に基づき、嫡出子としての出生届を受理してきたのです。これまで、1万人以上に達するといわれるAIDで生まれた子は、当然、嫡出子として、出生届が受理されてきたのです。
このような態度は、生物学的な親子でない者を親子とすることがあっても、国家が各夫婦・各家庭の事情に干渉しないという優れた面があります。養子制度は、生物学的な親子でない者を親子とする制度です。法的な制度においては、生物学的な親子関係の確定のみが優先すべき唯一の基準ではないのです。
夫が性同一性障害者の場合についてだけ、生物学的な観点を優先させ、他の夫婦の場合と異なる処遇をするのは、差別的な取扱であろうと考えます。
養子縁組など
法務省は、非嫡出子として出生届を提出した後に、子と夫との間で養子縁組をするように助言しているようです。確かに、子と夫が養子縁組をすれば、扶養、親権、相続など、法的には子が特に不利益を被る問題はなくなります。また、子について、無戸籍状態であっても、市区町村では、住民票を作成し、国民健康保険、各種の社会保障の面でも配慮しているようです。したがって、法的に有利か不利かという実益の問題ではなくなってきています。
問題の明確化
問題は、夫がFTMである場合、その妻がAIDで産んだ子は、嫡出子か、非嫡出子かという理論的・象徴的問題に絞られてきたのです。
当事者の心情に即して表現すれば、「国は、オレを男として認めてくれたのに、なんで、(妻がAIDを受けることに同意した)他の男と同じように扱ってくれないのか」ということでしょう。
当事者の方々から質問されることがあります。「立法運動の過程で、この問題に気がつかなかったのですか」。わたしの答え。「こういう問題がありうるということには気が付いていましたが、法務省がよもや婚姻している妻が非嫡出子を産んだという戸籍上の処理をせよと主張するなどとは、想定しませんでした。法務省の対応は、想定外でした。子無し要件を入れろという法務省の主張とならんで、法務官僚の人権感覚は、わたしの想定の枠を超えています」。
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