http://mainichi.jp/select/science/news/20120215ddm013100127000c.html
性同一性障害:非配偶者間人工授精 「非嫡出子扱いは民法違反」 「差別許せない」遅れる生殖補助医療関連の法整備
心と体の性別が一致しない性同一性障害(GID)で戸籍の性を女性から男性に変えた東大阪市の前田良さん(29)=活動名=と妻(30)が近く、第三者から精子の提供を受け人工授精でもうけた男児(2)を法律上の夫婦の子である「嫡出子」と認めないのは不当だとして、東京家庭裁判所に不服を申し立てる。夫婦の思いと、それを阻む法律の壁とは何なのか。【丹野恒一】
1月27日、東京都新宿区役所。前田さんが提出しようとした出生届を確認した職員は言った。「嫡出子を非嫡出子に書き直し、父親欄は空欄にしてください。あなたが届け出るならば、届け出人欄は父親ではなく母親の同居人となります」
GIDで性別変更したことは事前に伝えてあったので予想された対応だったが、やはりショックだった。「僕は父親だし、妻の同居人ではなく夫だ。なのになぜ?」。前田さんは「嫌です」と言い切り、席を立った。
子どものころから自分が女性であることに違和感があった前田さんは08年3月、性同一性障害特例法に基づき性別を変更。翌月、結婚した。妻は「元は女性だったということが引っ掛かったのは事実だが、最後は『この人が好き』という自分の素直な気持ちに従った」と話す。
子どもが欲しいと言い出したのは前田さんだった。副作用の危険もある男性ホルモンの投与を生涯受けることから「もし僕が死んでも妻を支えてくれる存在になってほしい」と考えた。妻は、子どもが差別を受けないか、その時に支える母親になれるかと半年悩んだ末、「これまでの人生は苦しいことばかりだったという夫に、残りの人生を幸せに過ごしてほしい」と受け入れ、第三者の精子を使う非配偶者間人工授精(AID)で子を産む決心をした。
09年秋、待望の子が生まれたが、出生届を出そうとして法の壁にぶち当たった。戸籍の記載から前田さんが以前は女性だったことが分かることを理由に、嫡出子として受け付けられなかった。1年後、夫婦は出生届を取り下げ、男児は無戸籍のままだ。今回、新宿区役所に改めて届け出しようとしたのは、法務省の膝元の東京で司法の判断を仰ぐためだった。
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前田さんと同様にGIDで女性から性別変更した神奈川県在住の男性(36)と妻(36)も昨春、AIDで女児をもうけたが、法的には非嫡出子として戸籍を作った後で特別養子縁組をして親子関係をつくることにした。
この夫婦の場合、いったんは嫡出子として出生届が受理された。しかし後日、市役所から「非嫡出子に訂正するか出生届を取り下げて」と電話があり、「天国から地獄に突き落とされた」(妻)。
夫婦は裁判に訴えることも考えたが、医療費助成を受けるための乳児医療証の発行が遅れたのをきっかけに考えを変えた。東日本大震災から日が浅かったこともあり、「無戸籍のままでは、いざという時に支援が届かないかもしれない。海外に避難したくてもパスポートさえ取れない」と不安になった。
そして何よりも娘の存在が、かたくなだった夫婦の気持ちを溶かしていった。「親子関係は戸籍が決めるものではない。書類上はどうであれ、夫婦で協力して抱っこしたり、オムツを替えたりする育児を通して、親子の絆をはっきり実感できているから」と妻は話す。
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民法772条は「妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する」(嫡出推定)と規定している。
GIDの男性は戸籍に性別変更したことが分かる記載があることを理由に、法務省は「親子に生物学的な父子関係がないことは客観的に明らかだ。嫡出の推定は及ばず、非嫡出子として届け出るよう求めている」と説明する。04年に特例法が施行され、性別変更後に結婚して子をもうけたケースは、同省によると16件ある。当初は保留した夫婦もあったが最終的に15組が従った。
残る1組が前田さんだ。前田さん側の山下敏雅弁護士は「法務省の判断は民法の条文に明らかに違反しており、性同一性障害の人たちが本来の性別で幸せな生活を送れるようにと制定した特例法の趣旨にもそぐわない」と主張する。
一方、一般の男性が無精子症のためAIDで子を持った場合、嫡出子として受理される。法務省によると、非嫡出子であるという記載にするためには、嫡出否認の裁判を起こすことが必要。これまでこうしたケースはないといい、父と子に遺伝上のつながりがないのは同じなのに、一般男性とGIDの男性の扱いに差が生じている。
前田さんの子に戸籍はないが、住民票は作られ、各種の社会保障も受けられている。特別養子縁組をすれば相続上の不利益が生じることもないというが、前田さんは納得できない。「法律によって男になり、夫にもなったのに、なぜ父にはなれないのか。差別だ」。その一点が、裁判を起こす動機となった。
この問題をめぐっては、10年1月に当時の千葉景子法相が当事者を救済する対策の検討を表明したが、2カ月後に「生殖補助医療の考え方が固まっていないことが問題だ。明確な基準が定まらないと対応は難しい」とトーンダウンし、法改正に至らなかった経緯がある。
生殖補助医療の分野では、第三者の精子や卵子を使ったり、他人に代理母になってもらったりするなど、複雑な家族関係が生じているが、法は追いついていない。前田さんの裁判が、たなざらしにされてきた法整備に向けて、一石を投じることは間違いない。
毎日新聞 2012年2月15日 東京朝刊