タレント はるな 愛さん 39 性同一性障害

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性同一性障害(1)ままごと遊びは母親役
テレビのバラエティー番組に数多く出演。時折、野太い声を上げて「男の片鱗(へんりん)」を見せ、笑いを誘う。

 「自分が認めたくなかった『男である』という部分を魅力と考えられるようになるまで、だいぶ遠回りをしたかもしれません」

 子どもの頃から、女の子用の洋服やおもちゃが欲しかった。ままごと遊びをする時はいつも母親役。「大きくなったら自然に女の子になれる」と信じていた。

 小学校に入ると状況は一変した。身体測定の際は男女で分けられ、体操着もはきたかったブルマでなく、短パンだった。「仲のよかった女の子とだんだん違っていくのだろうか。自分ではなくなってしまう、という絶望感がありました」

 自分は女性にはなれないのか――。寝ても覚めてもそのことばかり考え、勉強は手に付かなかった。

 図書の時間では必ずアンデルセン童話の「人魚姫」を選んだ。何かを失わなければ完全な女性になれない主人公と自分を重ね合わせたからだ。本で顔を覆い、あふれる涙を隠した。

 幼稚園に入る前から「アイドル歌手になる」という夢があった。ピンク・レディーに憧れ、テレビの物まね番組にも度々出演した。

 「学校では女の子っぽい部分を隠していたので、開放感がありました」

 誰にも悩みを打ち明けられないまま、小学校を卒業し、中学校へと進んだ。

(2012年3月1日 読売新聞)

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性同一性障害(2)中学2年 見つけた居場所



幼い頃から、心と体の性が一致しないという悩みを持ち続けていた。中学校に入学すると、着たくない学ランに身を包み、一応、男らしく振る舞おうと努めた。

 「本当の自分でいられないのはつらかったですが、学校では仮の姿でいようと決めました」

 子どもの頃から出ていたテレビの物まね番組には、中学生になっても女性の衣装を着て出演した。そのため、学校でいじめに遭った。性のことでこんなに苦しむのなら、死のうと考えた。

 中学2年生の時、衝撃的な出会いがあった。母が経営する飲食店のお客さんが、ニューハーフのいるショーパブに連れていってくれたのだ。そこで、自分と同じ境遇の人たちがたくさんいることを知った。

 「私の居場所がある。生きていく場所がある」

 店で働きたいと志願し、翌日から「昼は男子中学生、夜はニューハーフ」という“二重生活”を始めた。

 本当の自分でいられる場所を見つけたことで、家庭や学校で男らしく振る舞うことに抵抗がなくなった。

 「女性に生んでくれなかった親を恨んだこともありました。でも、自殺を考えた時、思いとどまったのも家族との楽しい思い出があったからです。だから家族には感謝しています」

 高校に進学したがわずか3か月で中退。両親に告白し、ニューハーフとして生きていく決意をした。

(2012年3月8日 読売新聞)


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性同一性障害(3)手術後も残った悩み


 高校に入学後、わずか3か月で中退し、飲食店で働いた。店では、ニューハーフが歌や踊りを披露し、来客を楽しませていた。

 幼い頃から「アイドル歌手になる」という夢があった。店のステージに上がり、芸能人になった気分で歌声を響かせた。

 ある時、テレビ局が取材にやってきた。

 「夢に近づいた気がしました。どこから見ても女の子に見えるように、かわいくなって、もっとテレビの取材に来てもらえるようになろうと思いました」

 女性の体を手に入れるため、性別適合手術(性転換手術)も受けた。「手術を受けることは親に言えませんでした。でも手術前に母親に電話して声だけ聞き、涙を流しながら手術台に向かいました」

 手術で自分の嫌だった部分がなくなると、肩の荷が下りた気がした。何よりうれしかったのは、女性用の服や水着を着られるようになったこと。女風呂にも入れるようになった。

 ただ、それでも周囲の人が女性と見てくれないこともあった。当時、付き合っていた男性の親族からは、ニューハーフであることを理由に別れを迫られた。

 「手術をしても生理はこないし妊娠もできないことはもちろん分かっていました。大変な手術であったけれど、たくさんある悩みの一つが解決しただけだったのです」

(2012年3月15日 読売新聞)

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性同一性障害(4)のどにポリープ 声出せず


 手術で女性の体を手に入れた後も、ニューハーフクラブで働いた。
幼い頃からテレビの物まね番組に出演していたが、20歳を過ぎると、そうした機会が増えた。ある時、東京の芸能事務所からスカウトされた。地元・大阪を離れ、上京した。

 しかし、思うような仕事はなく、1年余りで事務所を辞めた。その後、都内の飲食店などで働き、約10年前、小さなバーを開いた。

 程なくして、のどにポリープができ、声が全く出なくなった。店での注文や会計は筆談で対応できたが、会話でお客さんを楽しませることはできなくなった。

 「バーの収入が生活の糧でした。お客さんが来てくれなくなったら困るなぁと焦りました」

 だが、これが思わぬきっかけに。店内ではテレビモニターで松浦亜弥さんや松田聖子さんのコンサート映像を流していた。そこで曲に合わせて口パクの形態模写をしたところ、お客さんが喜んでくれたのだ。

 「ネタになるか分からなかったけど、やってみようと踏み出したことが、結果的に大きな武器になりました」

 声は半年ほどで戻ったが、松浦さんをまねた「エアあやや」には磨きをかけた。

 あるパーティーでこの芸を披露したところ、芸能関係者の目に留まった。一気に芸能界での仕事が舞い込み、2008年には念願の歌手デビューを果たした。

(2012年3月22日 読売新聞)

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性同一性障害(5)低い声も自分の個性

 自分が男であることは認めたくなかったが、今はそれも含めて自分の個性だと思えるようになった。

 「体は女性になったけれど、低い声を出したい時もある。戸籍も女性に替えるつもりはありません」

 2010年、日本テレビの24時間チャリティーラソンに挑戦。沿道から温かい声援を受け、応援ファクスもたくさんもらった。日本中の人たちに支えられていると実感した。

 昨年3月の東日本大震災では、「自分に出来ることを何かしなければ」と被災地に赴いた。支援物資を運んだり豚汁の炊き出しを行ったり。今でも月1回程度、休みをもらって被災地に足を運び、イベントに参加するなどしている。

 来月、4枚目のシングル「もっと愛を」を発売する。「世界中が深い愛で結ばれていけば、人々は幸せになれる」との思いを込めた。

 今後は、活動の場を世界に広げたいと考えている。09年に、ニューハーフの世界コンテスト「ミス・インターナショナル・クイーン」で優勝した実績もある。

 「おもしろ半分でもいい。奇妙なヤツだと思われてもかまわない。自分のことを知ってもらい、同じ障害を抱える人や、つらい闘病生活を送る人にも元気になってもらえるような活動をしていきたい」(文・利根川昌紀、写真・吉川綾美)

(2012年3月29日 読売新聞)