沼崎一郎氏の「マスターベーションの政治経済学―女性を"道具化"する男性セクシュアリティの個人的形成―」を読む。
沼崎一郎:「マスターベーションの政治経済学―女性を"道具化"する男性セクシュアリティの個人的形成―」『アディクションと家族』17巻4号:377-382,2000
興味深い。
とりあえず抄録を写す。
>本稿では、マスターベーションに注目して、現代日本社会におけるヘテロセクシュアルな男性セクシュアリティが内包する問題点を批判的に考察する。マスターベーションは、一見私的で個人的な営みであるが、ポルノグラフィーの使用に見られるように、自己の快楽のために女性を“道具”として扱う行為であり、したがって政治的な行為である。マスターベーションは、ペニス中心主義と性交至上主義を特徴とするセクシュアリティを形成する。ペニス中心主義と性交至上主義は、商品化されて射精産業と買春産業を支える。一方、これらの性産業は、女性を“道具化”するセクシュアリティを支える社会的基盤となる。女性を“道具化”する男性セクシュアリティは、女性を物象化し、非人間化しつつ、不均等で不対等なジェンダー関係を構築する契機となる。男女不平等社会が、マスターベーションという個人的な営みを通じて生産され、再生産される。まさに、個人的なものは政治的である。
以下は引用とカッコ内はつっこみ。
>マスターベーションは女性の介在なしには成立しない。女性の裸体、特に女性生殖器を想起することなく、マスターベーションに興じることは稀である。
(やり方や性的空想は人それぞれ。また、女性生殖器を想像する事こそ、稀だと思う。)
>最初に誰もが試みることのひとつは、「手」以外の何かを利用することである。
(こんにゃくとか、カップヌードル使う方が珍しいのでは。最初のパターンに固着する人の方が多いのでは。)
>マスターベーションにおける射精は、大きな欠乏感をも生み出す。
>マスターベーションの後には、性交できなかったという思いが付きまとう。代用品ではない、本物の女性器の中に射精したいという思いが残る。
(射精後は、不応期にはいり、性欲は消失するのが一般的。また、性交よりマスターベーション好き、という人も多い。)
>マスターベーションという極めて個人的な営みが、女性を“道具化”する「男権主義的セクシュアリティ」を形成する契機となっていることである。
(女性のマスターベーションは?ゲイの場合は?)
>雑踏を歩きながら、前から近づく女性を見て、突然「大きな胸だな」と感じることがある。その時、私もまた女性を“道具”と見なすセクシュアリティを身に付けている事に気づかざるをえない。なぜなら、男性の姿を見て、特定の身体部位が気になることは決してないからだ。無意識のうちに、男性であれば「学生」とか「サラリーマン」と捉え、女性であれば「脚」や「胸」に目を奪われるということは、男性を社会的に認める一方で「女性の社会的存在を否定する」ことに他ならないではないか。
(女性を見て「女子高生だ」「スッチーだ」とか思うのも、どうかと思うが。)
>ペニス中心主義と性交至上主義から、私は自由になれるだろうか。迷うばかりで、出口は見えない。
(絶倫自慢に聞こえなくもない)
全体として。
ヘテロ男性としての個人的な体験からのみ論じているのが気になる。
マスターべーションもそれを行う個々のセクシュアリティも実際には極めて多様である。
「マスターベーションは、ペニス中心主義と性交至上主義を特徴とするセクシュアリティを形成する」というのはロジックがあべこべで、
「ペニス中心主義と性交至上主義を特徴とするセクシュアリティに基づくマスターベーションは、ちょっと、とほほである。」ということではなかろうか。
まあ、個人的には、マスターベーションぐらい、悩まず楽しめよ、といいたいが。