9月20日の朝日新聞、神庭亮介氏の「男の娘」の記事と、三橋順子著「女装と日本人」の類似性 3

神庭亮介氏はtwitter上で以下のようにも述べているので、この点も検討する。

https://twitter.com/kamba_ryosuke/status/514513731615604736
>「794年、平安京」「1945年、終戦」「源氏物語に○○という記述がある」といった歴史的事実は、著作権法で保護されません。歴史は誰の所有物でもなく、客観的な史実を書いて「パクリ」と言われる道理もありません。稲作の歴史であれ、女装の歴史であれ同じ事です。
https://twitter.com/kamba_ryosuke/status/514519108423925760
>限られた紙幅のなか、複数ソースで確認できた歴史的事実を、わざわざ1冊だけを挙げてシングルソースのように書く理由もないので、かように執筆しました次第です。以上、連投失礼いたしました。ご理解のほど、よろしくお願い申し上げます。


神庭氏の発言で問題となるのは「歴史的事実」という部分である。
かれは「事実」と「解釈」の区別がついていないのではなかろうか。


たとえばヤマトタケルノミコトが女装して、クマソを退治したという記載が古事記にあるのは「事実」である。
だがこの事実をもって、「昔から日本人が女装に寛大だった」とするのは「解釈」である。
このエピソードから逆に「日本人は女装をタブー視していた」という解釈だってできる。
つまり、タブーを破ったからこそ、ヤマトタケルノミコトは、スーパーパワーを会得したともいえる。
ショッカーを倒すために本郷猛が改造人間になったように、クマソを倒すためにヤマトタケルノミコトは女装したのである。つまり、女装するということはもはや、通常の人間とはみなされない行為であった、そんな解釈も可能である。


女形も同様である。
「人気者だった」というのが「事実」だとしても、「江戸時代、女装に対し寛容だった」というのは解釈である。
歌舞伎役者というものは、江戸時代、士農工商といった身分制度の枠外に置かれた存在で、だからこそタブーの女装が行われ、そういった「女形」に対し、人々は好奇的関心を抱いていた、とも解釈できる。


戦後の「独特の文化」も同様である。
差別され疎外されたからこそ、独特の文化がはぐくまれたとも解釈できる。
隔離し差別、されたハンセン病患者さんの間から、優れた文学作品が生まれたように。


すなわち、解釈によっては「日本では女装は社会から疎外、差別されてきた」ともいえるのである。むしろ、こちらの考えのほうが社会通念としては一般的だったのではなかろうか。


ところが、三橋順子氏は「女装と日本人」の中で、個々の歴史的事実に対し「女装に寛容であった」という新たなる解釈を示し、全体として、「「日本人は女装に対して歴史を通じて寛容であった」という、「三橋学説」ともいえる、まったく従来とは異なるポジティブな言説を提示したのである。


であるならば、当該記事が引用でないというのであれば、
「他の学者による、女装に寛容であったという文献の提示」あるいは、
「女装に寛容であったことを示唆する、他の歴史的出来事の提示」
などが必要である。
しかし、実際には女装に寛容であった根拠はすべて、「女装と日本人」の内容に基づいている。


いずれにせよ。「歴史的事実」とひとくくりにし、「事実」と「解釈」の区別ができていないのは大きな問題である。
歴史的問題を巡る報道で批判されている朝日新聞の記者としてはなおさらである。


結論
以上をまとめる。
1. 神庭氏は「事実」と「解釈」の区別ができていない。
2. そのため、「日本人は歴史的に女装に寛容である」を、歴史的事実と考え、三橋学説であるとの認識がない。
3. そのため、引用したとの自覚が乏しく、引用もとの記載、事前の承諾、事後の謝罪、など適切な対応がとられていない。


と考える。