性を超えて 二話 信じる、わが子だから

2007/9/16/ 朝日新聞
性を超えて 二話
07.09.16 掲載
信じる、わが子だから


 京都府立高校の教師、土肥(どひ)いつき(45)は、京都・北山を見渡す住宅地で育った。自分の家族をもったいまも、ときおり実家に顔を出す。
 訪ねてきた新聞販売員が、応対に出たいつきを女性だと思って話している。聞いていた母の淳子(あつこ)(73)は「あっ、いつきさんのこと、『奥さん』って呼んではる」と、居間でいたずらっぽく笑った。
 最近、いつきが男性と見られることはほとんどなくなった。女性ホルモンを投与し始めて3年になる。
 母は、いつきが心と体の性が異なる性同一性障害であると、数年前に聞かされた。
 この子に何が――。「男と女が直線でつながっているとしたら、あんたは女に近いところにいるってことか」と聞くと、「それでいいよ」といつき。
 いつきのパートナーの淳子(じゅんこ)(43)が、「このごろは私の服、貸してるんです」と横から補った。
 驚いた。が、それ以上に「これまでどれだけの間、言えずにいたのか」と感じた。
 「ダディーには自分で言いなさいね」と伝えた。自分の主観を交えて知らせたくなかった。
 父の昭夫(80)が聞いたのはさらに数カ月後だ。
 「自分、心は女やねん。性同一性障害と言うて」と言われ、一瞬、声が出なかった。「えっ、何のこと」と聞き返した。
 「この世には男と女しかいないと思いこんでいたんです」
 昭夫は同志社大教授を10年前に退職した、キリスト教史の研究者だ。米国留学後、34歳で結婚し、まもなく生まれたのがいつきだった。
 やがていつきは数学教師になって、淳子(じゅんこ)と結婚。学校に来ない生徒たちの家に通ううち、校区内の被差別地区に住まいも移し、地域とかかわるようになった。在日外国人の子どもたちを支える活動もしていると聞いた。理論家である昭夫にはできない実践だった。改めて口には出さないが「よくやっている」と思っていた。
 そのいつきが、性別を超えるトランスジェンダーとして生きていくという。ならば自分から言うことはない。遠いところへ行ってしまう寂しさはあるが、「そこを信頼し、支えるのが親だろう」と思った。
 それより前、同志社大時代の教え子がレズビアンだと明らかにした。同性愛者がキリスト教団の牧師になることへの慎重論もあった中で、受け入れられ、堂々と生きていることを、昭夫は誇りに思っていた。セクシュアル・マイノリティー性的少数者)としてのそんな生き方も、いつきを思うとき思い出した。
     *
 かわいらしい子どもだった。昭夫が神戸の講演にいつきを連れていった帰り道、いつきだけ乗せて電車のドアが閉まったことがある。
 大阪・梅田の駅長室で待っていたいつきは、赤いベレー帽に白いシャツ、半ズボン。「男の子やったんですか」と預かっていた駅員が驚いた。
 淳子(あつこ)は「初めての子でしたから、私がいつもかわいい格好させて。あの子にとっては、その時代が一番いい思い出かもしれない」。
 女性への同一感を人には言えずにいたいつき本人が、トランスジェンダーという言葉を知ったのは10年前だ。その翌年、パートナーに打ち明け、女性として暮らす範囲を広げてきた。その変化を、昭夫と淳子(あつこ)は静かに見守っている。
 「心の性に合わせて生きるということが分からず、起きたことで初めて、ああ、こういうことかと納得している。その積み重ねです」と昭夫が言う。
     *
 いくら見た目で女性として通っても、名前で不審がられてしまうことがある。
 「謙虚であってほしい」と両親が名付けてくれた「謙一郎」という名前をいつかは変えなければと、いつきは考えていた。
 娘(10)が言葉を覚え始めたころ、「お名前は?」と聞いてみた。フルネームで答えることができた娘から、今度は「お父さん、お名前は」と尋ねられ、答えにつまった。「謙一郎」とは即答できない自分がいた。
 3年前、改名について両親に説明した。「あれ(謙一郎)ではどうしようもないから」と。「いつき」は、自分に初めての子どもが生まれたとき、付けようかどうか最後まで迷った名だ。
 「謙ちゃんがいなくなってしまう」
 淳子(あつこ)が「名前を捨てるの?」と聞いた。
 「ちゃうで。これまで自分の名を人に言いたくなかった。でも、『いつき』という名前を獲得することで、自分はかつて『謙一郎』という名前で、親がどんな思いでつけてくれたかをきちんと説明できるようになる」といつきは答えた。
 2週間で改名は認められた。家裁の裁判官は「不便をされているお気持ちはよく分かります」と声をかけてくれた。
 これまで通りの呼び方でいい、といつきは言ったが、両親はそれから「いつきさん」と呼んでいる。(井田香奈子)