2007.9.9.朝日新聞
性を超えて 一話 私の謙一郎君を返して
私の謙一郎君を返してよ
「こら、銀色のハナクソ」
2学期初日。鼻ピアスをしてきた女子生徒に、土肥(どひ)いつき(45)が笑顔で声をかけた。生徒が笑いながら逃げ出した。
さらさらの髪にすっぴん、細いジーンズ。いつきは京都府立高校で数学を教えている。「ドッヒー」「ドヒちゃん」と、生徒は呼ぶ。
戸籍の上では男性。謙一郎という名前だった。けれど女性に同一感を持ち、その心に合わせて生きている。性同一性障害と診断され、3年前に改名した。
【写真】 土肥いつきさん(左)と妻の淳子さん=京都市内で、山谷勉撮影
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女の子の体になりたい。意識し始めたのは小学生のころだ。
体操選手のコマネチにあこがれ、自分の部屋で白いTシャツを縫ってレオタードにした。身にまとうと満足感が広がった。
同志社大を卒業し、85年に教師に。ジーパンをほどいてスカートを手作りしたりして、ひそやかに女装は続いていた。
「自分は変態や」「こんな人間は世界に自分一人やろう」。だれかといるときは、そんな自分を心の奥にしまいこんだ。
丸メガネ、口ひげ、パーマの短髪。使い分けて生きていくしかない、と思っていた。
自分の高校には、被差別地区や在日朝鮮人の子どもも通学してくる。そんな生徒たちが、自分のことを安心して話せる学校にしようと、仕事に没頭した。
91年、同じ高校の事務職員だった淳子(じゅんこ)(43)と結婚した。
バイク好きで、スキーは指導員級。いばらず、生徒に向かっていく。「あの人の重力に引きずり込まれた。ベタぼれやったんです」と淳子は言う。
淳子も教員志望だったが、資格をとった社会科の枠は狭かった。ようやく講師になれたが、結婚してすぐ出産。始めてみると子育てがとてつもなく大きなことに思え、あれだけ続けたかった仕事に戻らなかった。
母子家庭で育ち、男女差別や貧富の差を感じてきた。毎日のように放課後、学校に来ない生徒たちを訪ねる彼は、自分の目標でもあった。
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いつきが性同一性障害という言葉を知ったのは97年のことだ。文化祭の教職員劇で同性愛者の男性が出てくる脚本を書いたら、同僚の教師からゲイだと打ち明けられた。彼が貸してくれた本に、心と体の性の不一致に悩んでいる人のことも書いてあった。
「これは自分のことや。ほかにもいるんだ」。自分の中のえたいの知れないものに、やっと名前がついた気がした。結婚後も一人のときの女装はやめられなかったが、罪悪感は少し薄れた。
一方で、自分のことを家族に隠していることがつらくなってきた。生徒たちには「信頼できる友だちに、自分の出身や本名について語ろう。きっと受け止めてくれるよ」と言っているのに。「なんで言えへんねん」と自分に聞き続けた。
1年迷って、ある晩、淳子に打ち明けた。ずっと女性の体になりたいと思ってきたこと。帰宅前、車の中で女装していたこと。女性として過ごしたいこと。
淳子は、天地がひっくり返る思いで聞いた。
結婚して、2人も子どもを作ったのに。連日、帰りの遅いいつきに、「あんたが夜出歩けるのは、男やからな」と言い続けたのに。今までの生活はなんだったのか。
ぐるぐる渦巻く気持ちを、でも必死で抑えた。「ここで否定したら、この人は死んでしまうかも」
口をついたのは「そうやったんか――。車の中で衣装替えるくらいならウチでやればいいやん」だった。自分が着なくなったデニムのワンピースを出してきて、いつきの体に合わせた。
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あの夜から少しずつ、いつきは女性へと移行してきた。ひげをそり、髪を伸ばし、学校には女物のパンツで。特に「女らしく」ふるまうわけではない。心に素直に、性別を超える「トランスジェンダー」として生きたいと思った。
手探りは淳子も同じだった。血だらけになってひげを抜くなど必死ないつきは責められない。でも私はどうなるの、子どもたちは――。
一度だけ、いつきに泣いて叫んだ。
「あんた誰なん?」
「私の謙一郎君はどこ?」
「謙一郎君を返してよ」
いつきの前にもつきあった人はいたが、ふったりふられたり。いつきとは何があっても一緒にいようと心に誓っていた。
「カフカの小説みたく、パートナーがある朝、虫になっていたら――。事故に遭って植物状態になる人もいる。ここで私が揺らぐのはあかんやろ」
今年、息子と娘は、高1と小4になった。2人が仲良くしゃべっているそばにいると、「この子たちが生まれたことは絶対、間違っていない。だから私たちの結婚も間違いではない」と思える。
いつきもそうだ。この家族を「続けたい」と念じてきた。
いつきが自分を開いてから、10年目の秋になる。(敬称略)
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性同一性障害と向き合う家族を3回にわたってお伝えします。(井田香奈子)