【ボーダー その線を越える時 プロローグ(1)】「命」「性」…消えた境界

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神に挑む 「命」「性」…消えた境界
産経新聞 1月1日(土)7時56分配信

【ボーダー その線を越える時】プロローグ

 人類は「人工生命の創造」という“神の領域”に踏み出し始めた。SF(サイエンス・フィクション)の世界の話ではない。

 米国の遺伝子学者、クレイグ・ベンターのチームは昨年、人工合成したゲノム(全遺伝情報)をもとに、完全な細菌を作りだした。

 「インフルエンザワクチンの開発期間を大幅に短縮」「地球温暖化対策の一環としてバイオ燃料を作り出す微生物の製造」「マラリアエイズといった感染症の新薬の迅速な開発」…。新技術を使えば、こんな可能性も広がる。

 「世界で初めて、コンピューターを親に持ち、自己複製できる種を作った」

 ベンターはこう胸を張ったが、新技術は人類に多大な恩恵をもたらす可能性がある一方、バイオテロなどに悪用される危険性も併せ持つ。生命とは何か。善悪を分ける判断は誰がするのか。新技術は哲学的命題を人類に突きつけている。

 性差にも異変は起きている。男でも女でもない第三の性“X”。「Xジェンダー」が増殖している。インターネット上などでは「無性」「両性」を指す言葉として使われている。

 「私は世間が言うところの『Xジェンダー』に該当すると思う」。東京都内に住む会社経営のモカ(24)も“X”として性差に縛られずに生きる一人だ。

 昨年10月、性器を取る性別適合(性転換)手術を終えた。近く性同一性障害特例法に基づいて戸籍の性別を男から女に変えるつもりだが、女になりたいわけではない。見た目と戸籍との性別の違いを説明することが面倒だからだ。「外見的に女だけど心の性別はない。男でも女でもない」

 モカは言い切った。

 「国中がフリーゾーンになる勢いだ」。中東ドバイのホテルの宿泊部長、マーリック(38)はいう。経済危機も伝えられたドバイだが、成長には勢いが戻りつつある。原動力の一つが外国資本誘致。税金が免除される10キロ四方の貿易経済特区には、世界中から6千社超の企業が進出する。

 「他にも自動車部品、医療、映画など20近いフリーゾーンがあり、世界中から人と財が集まっています」

 ドバイの中で最近、存在感を増す中国人。貿易商としてだけでなく、投資上手な「温州(おんしゅう)(浙江省)商人」が、高級リゾート地を買いあさる光景も話題だ。

 ドバイの中華街の入り口には、1匹の龍の彫金がグルリと取り巻く直径3メートル超の金属製の地球儀がある。「われわれにボーダーはない。商売になるなら世界どこでもいく。その象徴の地球儀だ」。中華街に昨年、家具店を構えた温州商人の張雄(46)は笑った。

 ドバイから約8千キロ。東京都足立区のマンションに昨年11月、チラシが投函(とうかん)された。「中国ではマンションが最長70年しか所有できません。日本の不動産に目を向け、投資用として急ぎ10部屋を探しています」

 土地は国が所有、居住用でも最長70年の使用権しかない中国。チラシには「購入資金は4億〜5億円」とも記されていた。古くからの団地が広がり、投資対象と考えにくい地域にまで、だぶつく「中国マネー」が流れ込もうとしている。

 「都心周辺の住宅地は中国人投資家から堅実な投資先とみられている。それに日本では土地まで永遠に自分のものになる」。東京都墨田区の不動産仲介業者はそう解説した。

 告発サイト「ウィキリークス」による米外交公電、警視庁の国際テロ資料、沖縄・尖閣諸島沖の中国漁船衝突映像…。

 ネット上に流出した情報は増殖を続け、既存メディアも国境も越えて瞬時に世界を駆け巡る。

 過去に事件・事故が起きたマンションの“事故物件”をネット上で公開する大島学(32)はいう。

 「いずれ一般人と情報エリートの境目はなくなるでしょうね」

 ≪X≫

 ■「中性」として生きていく

 東京都内に住む会社経営のモカ(24)は中学生のとき、母親のスカートをはいたり、化粧をしたりした。高校に進学すると女性ホルモンを服用。女性になりたかったのではない。「女性の持つ外見の美しさを求めていた」だけだ。

 周囲の人たちと自分の考え方が、性差をめぐって違っていることは分かっていた。だから18歳のとき、心と体の性別が違う「性同一性障害」の診察を行うクリニックに足を運んだ。

 「心に性別なんてない」と正直な気持ちをぶつけた。医師からは納得できる説明を期待していた。ところが、診断の結果は「性同一性障害ではない」。

 男でも女でもない“X”として生きているが、女性らしい表情や言葉について「習慣で身に付いた癖みたいなもの」と話す。

 付き合ってきた恋人は男性であったり、女性であったりした。男性にはかわいらしく甘え、女性にはデートプランを提案した。

 モカは思う。

 「多くの人が、社会が求める『男らしさ』『女らしさ』という考えに縛られて生きているだけ」

 性同一性障害の患者は、女性の体で心が男性の「FTM(female to male)」と逆の「MTF」に分けられる。ところが最近、第三の性“X”を選択し、自ら「FTX」「MTX」と称する「Xジェンダー」が急増中だ。

 「僕は『MTX』だと思う」

 昨年12月上旬の埼玉医科大かわごえクリニック。性同一性障害を診断する医師、塚田攻(おさむ)(60)のもとを訪れた20代前半の男子大学生は訴えた。

 「『中性』として生きていきたいが、世の中が受け入れてくれるか不安だ」

 身体や服装は男だが、自分の存在を周囲に男として意識されたくない。でも、女になりたいという願望はなかった。交際女性の存在が重くのしかかる。「結婚や出産を希望するようになったら…」。不安は募る。

 “X”を選択する理由は何か−。塚田は「社会全体で『男らしさ』『女らしさ』に対する意識が薄れ、生き方を縛るものがなくなり、逆に悩むようになったのではないか」とみる。

 ◆投資の矛先

 世界のビジネスシーンをリードし、「中国のユダヤ人」と呼ばれる温州商人。

 その日本での拠点「日本温州総商会」(東京都台東区)に所属する王平(おうへい)(37)は昨年9月、不動産仲介会社を立ち上げた。

 「温州だけでも民間で9兆円のカネが余っているのに、投資先がない。日本は賃貸の相場が高いため利回りに魅力がある。世界的にもトップクラスだ」

 だぶついた「中国マネー」の投資対象の矛先は、不動産だけに向いているわけではない。

 東京・神田で開かれる日本最大の古典オークション「古典籍展観大入札会」。昨年11月、中国・宋代の古典書「鉅宋広韻(きょそうこういん)」が中国人バイヤーに1億3千万円で落札された。

 神田の古書店店主、中野智之(55)は日本の現状をこう嘆く。「昨年の和書の最高額は1千万円台。実際の価値より評価が低い状態が続けば、だぶつく中国マネーの投資先にされ、買い占めも起こりうる。われわれ古書店はお金さえ支払われれば、売るわけですから」

 ◆ブタが救う

 国内ではそう遠くない将来、不可能とされてきた心臓を作ることも夢物語ではなくなるかもしれない。

 自治医科大先端医療技術開発センター(栃木県下野市)で進む「Yamaton(やまとん)計画」。

 「大和」と「豚」をかけた造語で、人間に移植する組織や臓器を、ブタを使って作り出す研究だ。臓器のサイズや生理機能がヒトに近いことから、ブタが選ばれた。

 同大客員教授の小林英司は「臓器移植は20世紀、革命的ともいえる医療の進歩だったが亡くなったり、生きている人の臓器を提供してもらう医療は限界がある」と強調する。

 動物の臓器を使った異種移植の研究は1960年代ごろから行われてきたが、異種移植した場合、臓器が数分で拒絶される超急性の反応が起きる。ハードルはこの拒絶反応をどう乗り越えるかにあった。

 例えば、腎臓の場合−。拒絶反応が少ないブタ胎児から腎臓のもとになる組織の一部を取り出し、そこに移植が必要な患者の幹細胞を注入して患者に戻す。

 ネコをヒトの患者に見立てた実験では、ネコの体内で血液を濾過(ろか)する腎臓組織である糸球体や尿細管ができ、尿がたまるのが確認できた。ネコの代わりにヒトを使えば腎臓疾患の患者を救う道が開かれる。「異種再生移植」という新しい分野だ。

 小林はこう話す。

 「大切なのは医療としてどの技術が一番早く、移植が必要とする患者に応用できるかということだ」

 ◆人工生命

 米国の遺伝子学者、クレイグ・ベンターのチームが人工細菌を作り出すことに成功した新技術は、必ずしもバラ色の未来をもたらすとは限らない。

 バイオテロへの悪用、自然界に放出された場合の環境への影響…。

 遺伝子組み換えについては、技術を持つ各国ごとに安全性評価や封じ込めについての基準があるが、遺伝子を丸ごと作り出す合成生物学という新技術については想定外だ。

 ベンターはこれまで、ヒトの遺伝情報の地図を解読したヒトゲノム計画を牽引(けんいん)してきた。そのベンターがヒトゲノム以降、追究したのは生物の最小単位とは何かという命題だった。

 「人工生命の創造」で“神の領域”に足を踏み入れた人類はこれから、どこに向かうのだろうか。

 =敬称略

 確固として存在していたボーダーが消えつつある。“神の領域”とヒトとの境界、性差の境界…。マネーや情報は国境を越えて世界中に拡散する。行き着くところはどこか。消える境界の現場を報告する。

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