性を大切にして生きる⑦

「ジェンダーフリーとは」というページを作成し、話題沸騰中のid:seijotcp様から、TBしていただき、ジェンダーについて、2005.5.15.の日記で、

>杏野丈さんははてなダイアリーをお持ちですから、もしかしたらご意見をいただけるかもしれません。


と書いていただいた。
一応、律儀をモットーにしているふりをしているので、何かいわねばと思うのだが。


単純な話、
・ genderとgender identityは別個の概念。
・ gender identityは、sexとgenderの両方の要素が関与して形成されると考えられる。

以上。
であって、特に言うことないんだけど。


まあ、それも無愛想なので、以下の駄文を見つけたので、こっそり貼り付けることにした。



季刊セクシュアリティ 22、2005、142-145P
性を大切にして生きる⑦
針間克己


ジェンダージェンダーアイデンティティ


最近、ジェンダーをめぐる議論が盛んです。議論は自由にやっていただければいいとは思うのですが。ちょっと聴いていて首を傾げたくなる話もあります。というのも、「ジェンダー」と「ジェンダーアイデンティティ」の区別がつかないままに、自説を展開しているものがあるからです。「ジェンダー」と「ジェンダーアイデンティティ」の区別がつかないままでは、あまり実りある議論ができるとも思えませんので、今回は少し説明したいと思います。
ジェンダー」についての説明は、広辞苑を引用します。
ジェンダー[gender]①生物学的な性別を示すセックスに対して、社会的・文化的に形成される性別。」簡潔で分かりやすい説明です。念のため注意するとすれば、英語のスペルが「jender」ではなく「gender」なことでしょうか。というのも、時々間違う人がいるからです。
たとえば、自民党の「過激な性教育ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクト」に関するサイトがありますが、そこのURLは
http://www.jimin.jp/jimin/info/jender/jender.html
となっていて、「jender」となっています。間違えると恥ずかしいので、「gender」と表記したいものです。
ジェンダーアイデンティティ(gender identity)の定義は、アメリカ精神医学会の発行する「DSM-IV-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル」から引用しましょう。「男性または女性であるというその人の内的な確信」です。
これもまた、明確で分かりやすい定義です。


なぜ2つが混同されるのか?


こうして、「ジェンダー」と「ジェンダーアイデンティティ」の定義を並べると、この二つが別個の概念であることは、一目瞭然だと思います。それなのになぜ、この二つは混同されることがあるのでしょうか。
一つには、われわれ精神科医に責任があります。ご存知のように、日本では性同一性障害の医学的取り組みは、つい最近まで行われてきませんでした。
しかし、手術をしたいという、当事者の強い要望を受けて、1990年代の後半になって、あわててにわか勉強をしだした、と言うのが現状です。ですから、にわか勉強がために十分理解しないまま、性同一性障害について説明するときに、「ジェンダーアイデンティティ」と言うべきところを、「ジェンダー」と間違っていってしまった精神科医もいたのです。そのため、この二つがごちゃごちゃのまま、世間に広まっていたと言う面があるのです。
もう一つの理由は、ジェンダーアイデンティティの形成に関する議論が、ジェンダーとの関連が深いことがあげられます。すなわち「自分を男であるか女であるかという確信(ジェンダーアイデンティティ)は、生後の育て方や社会的環境によって決定される」という学説があったために、この二つは、混同されやすかったのです。


ある症例


ご存知の方も多いと思いますが、この学説を主張した代表的な学者がジョン・マネーというアメリカの性科学者でした。彼は自分の学説を証明するために有名な双子症例について発表します。この症例の概要は次のとおりです。
男児の双子が生まれる。しかし、その一人が生後まもなく、割礼手術のミスで、ペニスをほぼ失ってしまう。どうしようか困った両親は、ジョン・マネーに相談。ジョン・マネーは、この男児に手術をし、女児として育てることを提案。両親はその提案に従い、この男児を女児として育てることにした。そしてこの子は女性として育っていった。またもう一人の双子は男性として育っていった・・・」
ところが、この症例は、その後ミルトン・ダイヤモンド博士などの追跡調査により、以下のことが判明します。
「思春期になり自分の性別に違和感を感じるようになる。親を問い詰めた結果、自分が男であったことを知る。その後、ペニスの再建手術を受け、男として暮らすようになる。」
つまり、この症例からは「ジェンダーアイデンティティの形成には、ジェンダーだけでなく、セックス(生物学的性差)が基盤として、かなりの影響を与えている」ということがいえそうだ、ということです。
しかし、ジェンダージェンダーアイデンティティの区別が良く分からない人は、この症例から「ジェンダーは生物学的に決定されるのだ」などと意味不明の議論をしたがることがあるのです。


『ブレンダと呼ばれた少年』の教訓


彼らのことを書いた『ブレンダと呼ばれた少年』が再出版されたので、また、あれこれ議論を呼ぶでしょうが、せめてジェンダージェンダーアイデンティティの区別をつけてから議論をしてもらいたいものです。
ところで、ここでは「症例」と、非常に医学的表現を用いてきましたが、実際に、一人の人間が実在したわけです。そして、彼は、昨年自殺してしまいました。理由は良く分かっていないようです。
そんな彼のことを考えると、自分も含めて、医者や学者などの第三者が、自説を主張したいがために、やれジェンダーだ、セックスだと、彼のことを引用するのは、無神経な行為な気もします。それでも、私はやはり、彼の人生からわれわれが学ぶべき教訓を述べないわけにはいきません。
それは、医者や社会が、個人に性別のありようを強要することの愚かさです。無理に男にしようとか、女にしようとか、男らしくさせようとか、女らしくさせようとか、どうして本人の気持ちも聞かないまま押し付けたりするのでしょうか。
ひとりひとり違う性のありようを、医療や社会はなぜ温かく見守ることができないのでしょうか。ひとりひとり違う性のありようを尊重することの大切さ。それが、『ブレンダと呼ばれた少年』が私たちに教えてくれることなのです。