「覗(のぞ)き」をする男 精神科医・斎藤学

2005.7.7.毎日新聞
第18回 「覗(のぞ)き」をする男 精神科医斎藤学


 無力感は人をさまざまな異常行動へと導く。最近、改めてこのことを考えたのは、20歳代後半のある青年と面接した時である。その青年は窃覗(覗き)事件で2度逮捕され、ある大学の医学部を追放された。

 再来年には、国家試験を受けられるという段階になっていたのに、また予備校生に逆戻りした。彼にはどうしても医師にならなければならない事情がある。医師であった父親が開いた病院は父の急死後、母親によって経営されており、その母親は若い医師たちの恣意(しい)に振り回されて、悔しい苦しい思いをしている。早く母親を助けなければならないと彼は思う。彼は母親を怖れている。特に、その涙が怖い。

 こういう事情だというのに、彼はまだ覗きの衝動にとらわれている。特に予備校から自宅までの帰途が危ないので、わざわざ遠回りして国道沿いの人通りの多いところを選んで歩いている。このままでは3度目の逮捕は確実だ。辛うじて母の涙への恐怖が、それを妨げている。

 彼は女性に近づけない、といった種類の青年ではない。現に20歳前後の恋人がいて、医学生だったころからセックスを含む親密な関係を持っている。そもそも覗きの衝動は、彼にとっては性欲とは異質のものだという。「それじゃなんなの?」と訊いても答えられない。それで私はひとつの仮説を言ってみた。「こんなふうに考えると自分の行動の理由がわかるんじゃないかな? もし、結構あたってるなと思ったらそう言ってね」。

 私が提示した仮説というのは以下のようなことだ。

 まず第一に彼は今、無力と絶望の感覚に打ちひしがれている。

 第二に、そのような無力感の窮みにいる人ほど、そこから脱する手段に飢えている。

 第三に覗きというのは、覗かれる方が絶対的な無力の状態にあるので、覗く側の彼に一時ではあるが「有力感」を与える。「ちょうど草原のシマウマにライオンがひそかに近寄るようなものだよ。シマウマはライオンに気づくまで無力だ、ライオンは有力だ。君がやってたことは性行為というより、ストリート・ハンティングなんだよ。無力感をぬぐうための。どお、少しは当たってる?」

 この解釈への反応は良かった。青年のうつろな目に生気がよみがえるのを確認できた。

 後は彼がまだ医学生だった時に、何故それほどまでの無力感の中にいたかが確認出来れば良い。それについては彼自身が雄弁に語ってくれた。故人である父親が、母親にも増して恐ろしい存在だったこと。この父親は病院と自宅における独裁者で、息子である青年に何の関心も持たず(少なくとも青年はそう感じていた)、バカ呼ばわりは日常のことで、出入りするさまざまな人々の前で、何度も恥をかかされた。突然思いたって、拉致するように家族を旅行に引っ張り出したりするが、そうした旅行は、必ず暴力と罵声に彩られる恐ろしいものになった。何よりハッキリしているのは、父親の頓死の直前、この息子は父に殺意を抱いていたことである。だから彼は父の死に理不尽な罪悪感を持っている。彼が医師になることへの執着を捨てられない最も大きな理由は、これであったというのだから、この青年に自己肯定の有力感が育っているはずがない。

 私の解釈は、別にこの日のために用意したものではない。

 少女への強姦未遂を繰り返す青年たち、痴漢を繰り返す青年や成人たちとの治療的面接を繰り返す中で、私の頭の中にいつからともなく棲みついたものである。

 彼らは皆(つまり例外なく)学童期までの間に親から力の感覚を奪われている。

 弱者を襲うものとは、自分に有力感をもたらす弱者を探さずにはいられない、もう一人の弱者である。

 2005年7月7日

http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/kokoro/century/news/20050705org00m100083000c.html