性同一性障害の苦痛は変化に対してである1

私が勝手に「カフカ理論」と呼んでいる、たとえ話がある。

性同一性障害者に対して、性同一性障害の苦悩を理解してもらうための、たとえ話だ。
「あなたが男性だとして、ある朝、目がさめたら、心はそのままで、体だけ女性になったらどう思いますか。
性同一性障害の苦しみとはそういうものです。」

という感じ。
カフカの「変身」みたいに、ある朝、体だけ変わるというたとえだ。

私も非当事者なのだが、正直このたとえ話は、おかしいと思っていた。
なぜなら、このたとえは、先天性のものと、後天性のものの区別がないからだ。

体の五感とか、運動機能なんかでも、生まれつきの「障害」と、あとから事故や病気によって、機能が失われた場合では、アイデンティティや適応に違いがあると思う。
生まれつきであれば、比較的受け止めやすいが、あとからだと受け止めにくいと思う。

で、一般的理解として、性同一性障害
「生まれながらに心の性と体の性が一致しない」
ということになっているので、生まれつきのものということになる。

「ある朝、目が覚めたら」
という話とは違うのである。

もし生まれつきなら、たとえ心と体の性が一致しなくても、何とかやっていける気がする。
「心の性と体の性が一致しない」ことが必然的に苦悩を呼び起こすとは思いにくいのである。
人はそれぞれの生まれながらの自己の体を、それなりに受け入れるものだからである。

と、以上、思っていたことの間違いに最近、気がついた。

性同一性障害の場合、大体の場合、先天的な不一致に苦しむわけではない。
そうではなく、
「不一致の方向に変化していくこと」
に苦しむのだと思う。
つまり、後天的な変化が苦痛なのだ。

たとえば、MTFの場合、物心ついたときからペニスの存在が苦痛、などという例は乏しい。
多くは、ごっつくなる体、声変わり、濃くなるひげ・体毛、勃起し射精し始めるペニス、などの変化がいやなのである。
FTMの場合も、生まれつきペニスがないことに対しては、あまり苦痛は感じない。
しかし、でかくなる胸や、始まる月経は苦痛なのだ。

というわけでポイントは、苦痛は状態に対してではなく、変化に対しておきるのはあるまいか。

明日以降に続く。