協力 針間克己 性別違和 パラアフィリア障害群
朝日新聞2021.4.18
(社説余滴)結婚と平等、賽は投げられた 井田香奈子:朝日新聞デジタル (asahi.com)
(社説余滴)結婚と平等、賽は投げられた 井田香奈子
国内で結婚という形を選べるのは、異性間のカップルだけだ。そこに司法が大きな疑問を投げかけた。
札幌地裁が先月、結婚に伴う保護を同性愛者が得られないのは憲法の法の下の平等に違反すると判断した。同性婚を求める人たちが起こした裁判は東京、大阪など5カ所で進むが、第1弾となったこの判決には、同性婚をめぐる議論の扉を開くカギがある。
同性愛は長い間、「治療すべきもの」とされ、差別や好奇の目を向けられてきた。近年、理解が広がってきたが、「性的指向は、本人が選択、変更できないこと」という判決の認定が、議論のベースとなる。
では、結婚したいのにできない当事者の状況をどう考えるか。
裁判で国側は「同性愛者も、異性とならば結婚できる」といい、民法などの規定は差別ではないと唱えている。形式的な結婚の機会は確保されている――ということだが、いかに空疎で心ない主張なことか。
当事者たちが求めているのは「愛する人と」結婚することだ。形ばかりの結婚は答えにならないし、本人が意図しない結婚の形を示すことで、当事者をおとしめているようにみえる。
国が被告の裁判では、検察官や裁判官の出身者が訟務検事として代理人を務めることが多いが、ただ国を勝たせればいい、というものではないだろう。個人の尊厳を傷つける主張は許されないし、裁判がめざす正義の実現に資する向き合い方が期待されているのではないのか。
救われたのは、判決が「同性愛者が異性と結婚したとしても、それは本人にとって、結婚の本質を伴ったものにはならない場合が多い」と、国の主張に全く取り合わなかったことだ。性的指向がどうであろうと、得られる利益に違いがあってはいけないと、国に迫っている。
訴えは別の論点で退けられ、裁判は今後も続くが、個人の権利救済を重くみる判断は、もはや戻ることのない世界的な流れだ。先進国を中心に約30の国々が、それぞれに裁判やさまざまな議論を経て、同性婚を認めている。
生き方の選択肢にかかわる問題だ。国会の見て見ぬふりは許されない。(いだかなこ 司法社説担当)
『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション――人種、ジェンダー、性的指向:マイノリティに向けられる無意識の差別』
読んだ。
人種差別から、さらにジェンダー(女性差別)、LGBT差別と拡大し、無意識に行われる微小な差別、偏見、攻撃である「マイクロアグレッション」についていて論じていて、大変勉強になった。
ただ残念なのは、「LGBT」といいながら、もっぱら性的指向の問題だけ論じ、「異性愛社会での同性愛へのマイクロアグレッション」のことだけ扱っていたのが残念。
このことがトランスジェンダーを不可視化し、同性愛の亜流とみなし、論じるに値しないという、「マイクロアグレッション」になっていると感じられて、皮肉なものだなと少し思った。
日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション――人種、ジェンダー、性的指向:マイノリティに向けられる無意識の差別
タイトル気になり読んでみた。
1975年頃、釧路が舞台。
登場人物に「ブルーボーイ」がいるのだが、そのころそういう呼び方だったのかな、と疑問。
ブルーボーイ事件が1964年。wikiによれば1967年ころまで使用例。
調べると、このタイトルは大竹まことの20歳のころの実話からとったらしい。
桜木紫乃、大竹まことの言葉をまんまタイトルに! 女装歌手、ストリッパーの物語 | ananニュース – マガジンハウス (ananweb.jp)
大竹まことは1949年生まれ。20歳なら1969年。
1969年ならまだそう呼んでいたのか。
小説では1975年の設定なので、実際そう呼んでいたのかどうかはわからない。
でも読んでいくうちに、1975年のブルーボーイだからこそいいのだと、気が付いた。
1960年代の全盛時代の輝いていたブルーボーイとはちがい、1975年は、時代から取り残された感がある。
だからこそ、胸を打つ。
ちなみに、ブルーボーイのモデルはカルーセル麻紀さんらしい。
小説は、じわっと暖まる、いい話だった。